ギャラリー
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甕(かめ)のコルク栓にする封緘紙
甕(かめ)に貼るラベル
これは昭和12年の甕(かめ)用「鶴見」のラベルです。 ラベルの中に金牌受領(きんぱいじゅりょう)と印刷されているところをみると、焼酎の鑑評会で金牌(今でいう金賞)を受賞したため、お祝いの意味も込めてカラーラベルを作ったのではないかと思われます。
左側が甕のコルク栓にする封緘紙(ふうかんし)です。 右側が甕に貼るラベルです。 美しい金縁の扇形のラベルには、二羽の鶴と稲穂、芋のつるが描かれています。 当時、阿久根はシベリアからの鶴の飛来地でした。 初代長次郎はその鶴を見ながら焼酎を飲むのを好み、自ら作った焼酎を「鶴見」と名付けたと言われています。 二羽の鶴がラベルの中に生き生きと描かれています。
ビンの口の部分に貼る封緘紙
ビンの肩の部分に貼る肩ラベル
ビンの胴に貼るラベル
こちらも昭和12年頃の瓶(びん)用「鶴見」のラベル3点セットです。 こちらのラベルにも「金牌受領」と印刷されていることから、上の甕(かめ)用のラベルと時期を同じくして作られたと考えられます。 左から、瓶の口の部分に貼る封緘紙(ふうかんし)、瓶の肩の部分に貼る肩ラベル、そして瓶の胴に貼るラベルです。
この丸形のラベルは、扇形のラベルの図柄に加え右側の鶴の足下に、まさに今土の中から掘り起こしたかのような芋が描かれています。 鶴の表情も扇形のラベルと丸形のラベルでは微妙に違いがあり、当時の全て手作業・手書きでのデザインの現場を思い起こさせます。 色彩も見事で黄色をバックとした大変鮮やかな配色となっています。 このラベルは復刻ラベルとして芋焼酎「復刻鶴見」のラベルとして現代に蘇らせました。 そちらも合わせてお楽しみください。
昭和12年以降のものと思われる封緘紙
昭和12年以降のものと思われるラベル
これは昭和12年以降のものと思われる封緘紙(ふうかんし)とラベルです。 絵柄は先ほどの丸形のラベルと全く同じく白黒印刷になっていて、肩ラベルは省かれています。
これは昭和10年代後半に太平洋戦争が始まり、贅沢のできない時代となっていたためと思われます。
昭和12年以降のものと思われる封緘紙
こちらは太平洋戦争中の昭和16年から20年にかけてのラベルです。 ラベルの中に「普通」と書かれています。 当時、勤労動員者に対し特別配給などがありました。 そのような焼酎には「特配」と書かれた焼酎が、国からの命令があったときに所定の場所で配給されていました。 統制経済がより拡大し、日用品にまで及んで来た時代のものです。
このラベルの「普通」とは、特配以外の通常販売用の焼酎という意味だと考えられます。
昭和16年ごろのラベル
このラベルをよく見ると「参圓五拾銭」(3円50銭)と値段が書いてあります。 ここに書かれている値段を元に古い資料を調べてみると、昭和16年頃のラベルであることがわかりました。
昭和17年の帳簿
昭和17年の帳簿
こちらは昭和17年の帳簿です。 太平洋戦争はもう始まっていて、帳簿の内容にも政府からの「焼酎を特別配給せよ」との命令書などが目立ちます。 写真右のページには「普通木炭増産用特配焼酎配給方ノ件」と書かれています。 「木炭増産に動員された人たちに焼酎を特別配給せよ」と書かれた命令書です。
昭和19年のラベル
こちらは昭和19年のラベルです。ラベルには印鑑が押してあり、この焼酎が価格特配酒であることが明記されています。 価格特配酒は昭和18年に制定されたもので、税率を安くして価格を下げ、特別配給品として大蔵大臣の定める用途、主に戦争遂行事業に特別配給したものです。 印字には「昭和拾九年弐月拾伍日最低規格 三〇度 公価格特配酒一升瓶詰 二円五拾銭」と書かれています。
昭和16年頃までは、鶴見の一升瓶は先ほど出てきた四角いラベルにあるように、3円50銭で売られていました。 しかしこの年の帳簿によると、鶴見の一升瓶は昭和19年の5月から5円、昭和19年12月から5円40銭、昭和20年には8円と、戦争のあおりをうけてか原料の値段と酒税がどんどん上がり価格が高騰していたようです。 この特配の印字によると、昭和19年2月15日の時点で定価3円50銭~約5円のところを2円50銭で特配として販売するよう設定されていたようです。
ここで、時代を大正時代の後半まで巻き戻してみましょう。 大石酒造では創業以来の銘柄として「鶴見」を造っていますが、現存しているラベルで一番古い銘柄は大正時代後半のものと思われる「錦鶴」という銘柄になります。
「錦鶴」のラベル
昭和14年の帳簿
昭和14年の帳簿
昭和14年の帳簿
こちらが「錦鶴」という銘柄のラベル。 なんと「米焼酎」と書かれています。 ラベルも当時としては珍しい立派なカラーラベルです。 当時、米は高級品というイメージがあったため、豪華なカラーラベルを用意したのではないかと思われます。大正末期にはタイ米や台湾米などの流通が拡大し、うちのような田舎の蔵でも外国産米が手に入るようになってきました。 この頃から各地の蔵では、そのような外国の破砕米を利用してコスト的にも安く、たくさん焼酎を造ることが可能になります。
当時、芋よりも米の方に良いイメージがあったからか、または同じ設備を利用した場合、米焼酎の方がより量が造れるためか、理由は定かではありませんがうちの蔵でも米焼酎を造ってみたのでしょう。昭和に入り日中戦争が激しくなってくると、旧式焼酎(乙類焼酎)の原料米も統制されて自由に使えなくなってきました。 (旧式焼酎とは、小規模で大量生産されない昔からの製法で造られた焼酎のことで、まさに小さな蔵である大石酒造が造っていたような焼酎を指します。)
こちらの帳簿の記録は、昭和14年のシャム米(タイ米)と台湾米を購入したときの記録です。 このように県の酒造組合連合会が発行する公式書類が残っているところからも、当時米の購入についての厳しい統制を受けていたことが想像できます。
さらに昭和16年には、政府からの圧力のため、焼酎の原料米の購入は前年度の57.2%に減らされます。この「錦鶴」という銘柄がこの後途絶えているところをみると、原料が手に入りにくくなったため、大石酒造では米焼酎の生産をやめたのではないかと思われます。
「鶴見」五合瓶ラベル
こちらは現在使われている「鶴見」五合瓶のラベルです。 このラベルの面白いところは、昭和20年代の始めにこの絵柄が制作されて以来少しずつ変化しつつも今に至るまで同じ絵柄が受け継がれて来たところにあります。 そのため、このラベルは復刻ラベルではなく昭和20年のころから続いてきた定番ラベルなのです。
このラベルの図柄は阿久根市にある「阿久根大島」という島をモチーフにしています。大石酒造の古いラベルにたびたび描かれる阿久根大島は、阿久根市街地からフェリーで約10分のところにある環境省選定の快水浴場100選にも選ばれた美しい小島です。 海水浴場やキャンプ場、コテージ、松林などがあり100頭前後の野生鹿が棲息していることでも知られています。 ラベルにはその島のシンボルである鹿や松、鶴、波が描かれ、ラベル中央下には阿久根市街地からみた阿久根大島のシルエットも描かれています。 また、ラベル右上には当時阿久根に飛来していた鶴が羽ばたいています。
ラベルの中の鶴見という文字のバックグランドになっている小槌型の図案に注目してください。 昭和20年頃のラベルには画面中央にある小槌型の図案はなく、風景の中にただ「鶴見」と書いてあるだけのラベルだったそうです。 しかし、昭和30年代に小槌型の図案をラベルに取り入れることが流行し、このラベルもその流行に乗り鶴見の文字が小槌型の図案の上に配置され、その図案がそのまま現代にまで続いています。
昭和の前期まで、ガラス瓶はまだまだ鹿児島県の方まで流通していませんでした。そこで、焼酎の蔵では 18L/一斗(一升瓶10本分)甕(かめ)に焼酎を入れて、蔵から酒販店に配達されていました。
当時の地元の人はとっくりがなかなか手に入りにくかったため、蔵から貸し出されたとっくりを酒販店に持って行き、酒販店は焼酎を枡で甕からとっくりへ移して量り売りをしていました。
多くの人はその日に飲む分だけを購入していたようですね。 とっくりは大きいもので一升瓶程度、小ぶりのもので四合瓶程度のようです。
昭和20年代~30年代には一升瓶での売り出しもはじまり、通いとっくりもまだあるという過渡期となります。この頃は、多くの町の人はとっくりではなく家にある空き瓶(サイダーの瓶等)を利用して量り売りをしてもらっていました。
昭和35年以降、高度経済成長と共に通いとっくりは急速に姿を消したとのことです。
阿久根村時代 の「通い徳利」です。 左側のものは阿久根村と書かれています。現在の阿久根市は1924年(大正13年)まで村でした。 そのため、これは1924年以前の「通い徳利」です。お客さんに貸与するために番号を記入してあります。
左側のものは品質が良く上品に出来ています。 右側のものは年代は不明ですが、たぶん苗代川焼きで汎用品として製作されたものでしょう。 陶土も黒っぽく白い釉薬でそれらしくしています。しかし現代の感覚で見れば、力強く味のある作品といえます。
「とっくり」よりは容量の多い「かめ」です。3升入り(5.4リットル)でしょうか。阿久根町とあります。阿久根が町になったのは1925年(大正14年)からなので、それ以降にできた「かめ」です。
これは家の新築祝い、船の進水式などのお祝い事にお客様に貸与して用いました。用済み後は返却されました。 従って番号が書かれています。
これは平成になってから(1990年頃)家の解体をした人が持ってこられました。その方の祖父にあたる人が「これは返すんだ。」と常日頃言われていたのを思い出して持ってこられました。大変律儀な方がいらっしゃるものです。
様々なデザインのとっくりが残っています。年代は不明です。 当時は屋号はどれが正しいのかわかりません。
実にいろいろな表記がしてあります。大石長次郎本店、大石醸造所、大石醸造本店など。大石醸造所が一番多いでしょうか。
農家さん、蔵人、芋きり、瓶詰め、ラベル貼り、出荷に至るまで丁寧な手仕事が大石酒造の焼酎造りを支えています。女性たちの手仕事も世代を超えて受け継がれます。
明治32年から続く焼酎蔵。創業時から麹室として使われる重厚な石壁と天井は脈々と受け継がれ焼酎造りの生き証人のようです。五代目が設計図を引き再現した兜釜蒸留器やもろみの様子、道具など蔵の中に息づくものたちをご紹介いたします。
当蔵がある鹿児島県北西部に位置する阿久根市は東シナ海に40km面した美しい海岸線があります。東シナ海に沈む幻想的なオレンジの夕陽、海と山、豊かな風土を感じていただけましたら幸いです。阿久根駅はオレンジ鉄道が肥後と薩摩を繋ぎます。